「なずな」の運営する食養庵という施設に入って一週間、様々な病気や不調を抱えている方々と寝食を共にしました。
朝は、鶏の鳴き声で目覚めます。自分たちの食べる食事は自分たちで作り、薪でお風呂を沸かし、時々畑を見学しながら過ごしていくのです。
とてもゆったりとした時間の流れのなかで、食べたものが血となり、身体を作っていくことを実感することが出来ます。しかし、食べることよりも、息を吸って吐いて生きていることを同時に感じていくのでした。
当たり前すぎて意識していなかったこと。何をどう吸って、何をどう吐き出していたのか?
“呼吸"と言ってしまえば簡単ですが、身体に取り入れて命に変えながら吐き出すものは様々にあるように思ったのです。
…しかし、余命宣告を受けた息子が、みるみる回復していく…、そうテレビドラマのようにはいきませんでした。
病院には入れないという私の選択は、治療の拒否であり、息子を見殺しにすることだ!、そんな母親の母乳より病院に入れるべきだ!と真剣に意見してくれた友人もいました。
でも、治療の拒否、治癒の諦めなど、私にはそんな気持ちは全くなかったのです。
「…もしかしたらこの子もアトピーなのか!」
そのショックから生きることに後ろ向きになってしまった私は、私のもとに子どもとして生まれてきてくれた意味を考えようともせず、「生きよう」という意思の邪魔をしてしまったのではないか?、そんな後悔をずっと抱えていたのです。
もし、あの時に戻ることが出来たなら…、その時点から息子の成長を正道に戻せるものなら…、自分の命に代えても何とかしてあげたい!、そんな思いだけが空回りしていました。
産んだばかりの我が子が目の前から居なくなることをどうやっても受け入れることなど出来ませんでした。…しかし、それが本人の意思であり、この宇宙の定めた理ならば、母親に出来ることは一つだけ…受け止めよう…そう思ったのです。
妊娠し、お腹の中で育っていても、その成り立ち(魂)は全くわからないのに似ています。この子の意思に任せる、そんな私の覚悟を子供から引き出してもらったのかもしれません。
しかし、覚悟をしていても、誰かが助けてくれたら…、魔法のように良くなってくれたら…、奇跡が起きてくれたら…と、くる日もくる日もどこかで思っていました。
毎日、一瞬一秒が怖くて怖くてたまらなかったのです。
「怖い」と言ってしまうことも怖く、決して口にも出さず、意識の遠くへと押しやっていたように思います。
食養庵での、病気は怖いもの、誰かに治してもらうもの、と捉えない方々との時間はかけがえのないモノとなりました。
安心な一週間から自宅にもどると、必死で新しく住む家を探しました。色々な方々のご温情で明るくて綺麗な家に移り住むことが出来ました。ここからならきっと明るい未来が…と。そんな矢先、共に玄米菜食を始めた親友が危篤だとの連絡が入りました。
…入院して3日が経った頃、「尚子ちゃん、あたし決めたよ!」
少し年上の、親友だけが呼ぶいつもの私への呼びかけ…確かに彼女の声が一人運転していた車の中に響き渡ったのです。
「あたし決めたよ」それだけで何を決めたのかがわかりました。彼女は、逝くと決めたのです。
「私を置いて行かないでー」
抑えることが出来ずに噴き出した感情、泣くだけ泣いて、私を置いて行かないでと叫んだ自分の声に、悲しいのは親友の状況ではなく、置いて行かれる自分の傷みなのかと…がく然としたのでした。
…二人目の子どももアトピーだった。最初の子はただ必死でしたし、初めてだから出来た事も沢山ありました。
でも、二人目は…。大分に暮らして6年の月日、そんな日々の積み重ね。
その上、親友まで…!
その声から2日後、自宅で意識を失った親友は、救急搬送されてからたった数日、病院のベッドの上で意識が戻らないまま逝ってしまいました。彼女自身、気がついていませんでしたが子宮けい癌でした。
絶望という闇は、そう簡単に消せないもの…再び浮上してきた想い。
人は「心に穴が空く」と悲しみを表現しますが、私の内側に空いた穴は3Dの映像のように立体感がありました。
はかなげな息子を伴い東京へ。どうやって親友のお通夜と葬儀を過ごしたのか、確かな記憶は今もありません。
「お母さん、残念ながらお子さんはいつ死んでもおかしくありません、原因は不明ですが。処置をして助かる見込みは……」
……あとは覚えていません。毎年、合歓の木の花が咲く頃になると脳裏に甦る場面。今から8年前、次男が生まれて五ヶ月たった頃の医師からの宣告でした。
2月の朝日が輝く中、産声を上げた彼は、生まれるとすぐに私のお腹の上で笑顔を見せてくれました。看護師さんの「笑った!!!」の声がそれまでの張り詰めた空気を溶かし、その場に立ち会ったすべての人を笑顔に変えてくれたのです。赤ちゃんにはそんなパワーがあります。そして、何度でも産みたい!そんな経験の大安産でした。
それから数カ月……余命宣告を受けた日の帰り道、車窓から見えたピンク色の合歓の花がいつもと違って何故か儚く見えました。どうしても赤ちゃんがほしい!そして、ゆっくりと子育てを体験したい!!そんな希望にあふれた妊娠でした。出産の前日まで仕事をし、同じ妊婦の友人とパワフルに楽しいマタニティライフを過ごし、体中からエネルギーが溢れているような感覚だったのに……。
人生にこんな衝撃が起ろとは、五ヶ月前……誰に予期できたでしょう?
一人で受けるしかなかった息子の余命宣告。車を運転してくれた友人が私以上に泣いてくれました。私は、わが身に起きたことの意味を受けとめるのがやっとで、頭の中では先程の医師の言葉が何度も何度も繰り返されていました。「いつ死んでも……いつ……」
「生後5カ月で1kgの体重低下は、大人の10kgに相当します。」
……座っていた首もグラグラになっていました。まん丸のお顔も痩せこけ、やけに頬骨が目立って骸骨のようでした。泣き声も弱々しい。こんなになるまで……、自分を責めても何にもなりませんでした。
……ですが、今なら解るのです。あの時、私は息子を直視できていなかったのだ、と。確かに毎日、抱きしめて母乳を与えていましたが。
産後1ヶ月経って手伝いに来てくれていた実家の母が東京に戻ってから、私の気持が少しずつ沈んでいきました。私なりの理由はあったのかもしれない。(言い訳に過ぎませんが)そう、わたしなりの……。そして、二ヶ月が経ったころ、息子の顎が赤く爛れました。今の私なら気にも留めないことですが。でも、あの時の私は、ひどく落ち込みました。「生きる」という生に対する意欲を失いつつありました。「神様、二度も同じ苦しみを与えないでください。……とても乗り越えられません」と、願ったことを覚えています。
「どうかこれ以上悪化しませんように……」
母親の心に芽生えた不安や恐怖が、抱きしめる腕から母乳から、私自身から伝わるのに時間は必要ありませんでした。みるみる顔は真っ赤に爛れ、両手首・両足首もまるで何かに掴まれているような形に赤く爛れて膿が流れる状態になりました。
そして、私は絶望したのです。……その日から、目の前にいるのは「二人目もアトピーの息子」となりました。東京から大分に移り住んだそれまでの6年間の全てが顎の爛れをきっかけに無かったことになろうとしていました。食事を変えたって……住む場所を変えたって……。
さらに……、母乳ケアに通っていた助産師さんから、子供の顔のことで病院に行かないという理由で保健センター(当時、住んでいた町の)にネグレクト(消極的幼児虐待)の通報をされてしまいました。小さな町の役場と保健センターは騒然となりました。あの東京から越してきた○○さんが?!……ひっきりなしにかかって来る電話の音。さらに、小学校に入学したばかりの長男はジンマシンの出る日々の繰り返し。
まさに目が回りそうな毎日でした。この大変な毎日から解放されたい……!何故?私だけが、また?……きっと、そんな思いだったと思います。
そんな中での医師からの宣告。産後ウツになりかけていた(なっていたのかもしれませんが)私が目が覚めるには十分すぎる衝撃でした。宣告を受けながら私ははっきりと悟っていました。「あの時の私の絶望がまた息子を……」
一度手放してしまった(自分の絶望が招いた結果としての受けとめです)息子を二度は手放せない!このまま入院し処置を受けても助かる見込みがあるかどうかはわかりませんとはっきりと告げた医師に私は息子を委ねる勇気はありませんでした。それは、再び息子を手放すことと同じように思えたからです。「一度自宅に戻り家族と相談します」そう医師に伝え自宅に何とか戻りました。
その後、保健センターと医師からは何度も何度も電話がかかってきました。後からわかったことですが、私を入院させ(精神的疾患で)、息子を別の病院に入院させて……と計画は進められていたようです。そこで、医師には東京の病院に入院することにしましたと嘘をつきました。また、町の保健センターは、以前からお世話になっていた「なずな農園」主宰の赤峰勝人さん(センター長さんと同級生だったそうです)が「ワシが後見人として責任を持つ!」と言ってくださったことでやっと治まりました。
この騒ぎから数日目の夜、次男の様子が……。
明日には赤峰さんが主宰されている食養庵(なずなの野菜や玄米を使った料理法を学びながら1週間を過ごす施設)に入ることになっていました。なんとかそこまで頑張ろうと不安と必死で戦っていましたが、私の腕の中で息子の息が弱まっていくのを確かに感じていました。……このまま死んでしまうのか。感じまいとしていた死が、もうどうしようもなく目の前に突きつけられているように感じました。
物差しで測れる世界と物差しを必要としない世界、あなたはどちらに生きていますか?なぜかそんな問いかけを迫られているように感じていました。話しかける相手は神様しかいませんでした。
「どうか連れて行かないでください……」
しかし、何度懇願しても返事はありませんでした。その時点で数日眠れていなかったことから頭の中にはたくさんのアドレナリンが放出されていたのだと思います。とうとう、「これが息子の寿命なら受け入れます。この子がそれを決めて生まれてきたのなら、母親の私に出来ることがあるなら受け入れることだけです。今この場で死んでしまっても母の腕の中で愛されながら、愛していると言われながら死んでいくのなら、……私も愛していると伝え続けられるなら本望です。でも、もし、まだこの子の寿命ではないのなら……どうか、天寿を全うさせてください!」私の口がそう語っていました。
その時でした、アドレナリンの影響からか幻覚が……。部屋の壁に映し出されたのを視たのです。世界中の色々な親子の別れの姿が……。場面は違ってもどの母親の思いも同じでした。考えていなかった……。この瞬間、自分と同じ気持ちの母親が世界中にこれほどいるということを。「今、同じような苦しみの中にいる母親の心がどうか癒されますように、苦しみから解放されますように、私たち母親にどうか勇気をお与えください。」
……それは、私が本当に初めて祈った“瞬間”だったのかもしれません。
子供は2歳3歳と年を追うごとに言葉もはっきりとしてきます。
「かゆいよーかゆいよー」「痛いー」「しみるよー」……という言葉や、一向に良くならない湿疹、喘息の発作は、周りをも騒がしくさせていきます。
そして、「病院に連れて行きなさい」「薬は?」「そんなことしてて良くなるの?」「かわいそうで見ていられない」周囲の全ての言葉は、母の胸に静かに刻まれてゆくのでした。それは、一日中傍にいる母親の私が誰よりも感じていた言葉でしたから……。
「かわいい」ではなく、「かわいそうね」と言われる日々。湿疹に覆われつくしている顔や体の皮膚を毎日見ていると、不安に凍えてしまいそうになりました。身体からにじみ出る黄色いリンパ液、向け落ちる皮膚、血と膿の匂い、それに寄って来るハエ、寝かしておけば身体にたかる赤蟻の大群。
相談できる人がいたら、不安な気持ちを聞いてくれる人がいたら……、そんな気持ちの時には、自分自身の不安と人から言われた言葉がさらに重なって大きくなり、自分のしていることを疑い始めます。どれほど食事を変えても、フラワーレメディーも、お手当も、ホメオパシーも何になっているのか? と。
ホメオパシーは、他人に聞かれれば答えることが出来るほどに勉強していました。ある場所のセンター長さんからは、向いているからと学校に入り勉強するように勧めてくれました。
それでも……息子は……。
「ママ、かわいそうってなあに? ぼくってかわいそうなの?」
手をつないで歩いていた小さな息子が突然私に問いかけたのです。生まれてからの数年間、言われ続けた言葉。その意味も知らずに覚えていました。
「ママ? ぼくってかわいそうなの?」
どんなに心の中で動揺していても周囲の言葉には、ただ笑顔で
「そうですね……どうかなあ……」
とやり過ごすしか方法が見つからず、それでも母は揺るがない山のごとくありたいと願い、弱音は天にと、誰もいないところで泣いてきました。
過酷なマラソンランナーもその先にゴールがあることを知っている。あのエベレストにも頂上はある。でも、私のいく道にはゴールが見えない。ゴールがあるのかさえ分からなかったのです。
紅葉のような手のひらと、屈託なく無邪気な声で聞いたのです。どんな演技も通用しないまっすぐな瞳で私の眼を見つめていました。「あなたも(母さんも)かわいそうと思っていますか(おもっているのか?)?」そう聞かれているような気がして、泣き崩れそうになる自分を必死に抑えて立っているのがやっとでした。私は……自分の言葉を待っている自分をもう一人いるように感じていました。
「かゆくて眠れないのに頑張っててえらいねってほめてくれてるんだよ。おじちゃん、おばちゃん、みんなの優しい気持ちだよ。よかったね。」
何が正解だったのか? 何処に正解があったのか? は解りません。
「ふーん。やさしいねえ」
と、微笑む息子の笑顔に癒されているのは私の方でした。
食べたいものを我慢させるより、薬を塗りなさいと気遣って頂くこともありました。なんでも食べられる私たちから見たら、玄米と野菜だけしか食べられない子どもは、「かわいそう」なのかもしれません。でも、子どもからすると、ほっこり甘くて命丸ごとの本物の野菜とお米しか口にしてないことは、幸せなことなのです。アトピーだったからこそ出会えた大地と天からの恵みでした。
……戦うべき敵など何処にもいないことを子どもが教えてくれたのでした。
ちゃんと生んであげられなくて「ごめんね」から、生まれてきてくれて「ありがとう」の感謝に変えて。
かゆみでどうにもならない時は、「かゆいね、いたいね、大丈夫だよー、えらいよー」とありったけの愛を持ってほめてあげることにしました。あきらめない……ただその思いだけだったように思います。
そのうち、子供の体に湿疹があっても、それが母親の目にだけは見えなくなってくるのです。気にならなくなると言えばよいでしょうか。本当に不思議なものです。
8歳のころには、ツルツル肌になりました。(現在は、中学2年生。食べられなかった食品も今では、ガツガツ食べています。)
治らなかったのではなく、私が学ぶために必要な時間を与えてくれたのではないか?
私はそんな風に思うようになっていきました。アトピーは、まるで天からのエアメールのようだったと思っています。
どんなにつらくても、苦しくて孤独な時ほど、あきらめない……そして、責めないで……。
……神様、私の愛は、どこにありますか?
玄米菜食にして10年。
「美味しい母乳を飲んでほしい」その想いから助産師さんに勧められるままに期間限定のつもりで始めた玄米食が、そのままアトピー性皮膚炎のためになり、今では、美味しくて止められない我が家の味になりました(2005年当時)。
「食はその人の運命を左右する」と、江戸時代の観相家・水野南北の書にもあるように、たかが玄米されど玄米です。食べ続けていると持久力が生まれていることに気がつきます。不思議なもので耳の形まで変わりました。(耳の形を見るとお腹の中にいたときにお母さんが食べていたものがわかるという説があります)とは言っても家族みんなで同じ食卓を囲むまでの数年間は、思考錯誤の連続でしたが。 なずな農園から無農薬無化学肥料の循環農法でできた野菜が届くようになって、食餌療法も本格的になりました。自然循環農法家・赤峰勝人さんの「なずな流食事指導本」を繰返し読み、食事指導のビデオを何度も巻きもどしながら、なずな流料理法を1日も早く習得しようと必死でした。
息子のアトピーは重度でしたから、かゆみや湿疹が出にくいはずの“なずな”農園で生産された小麦粉でも卵でも痒みが吹き出ました。自然食品店で購入した豆腐でも食べるとお臍がジュクジュクしました。豆腐を食べるためには、なずな農園の大豆と本物のにがりで作るしかありませんでした。本当に玄米と野菜だけの食事が始まりました。幸い息子は他の味を知りません。母乳をあげる私自身の忍耐の日々でした。 息子の祝い膳でも私たち用(玄米、野菜)と、一般用(お寿司にお肉にetc…)の二種類を用意しました。 東京では、友人に誘われても常にお弁当を携帯しなければならなかったので、その荷物の多さと途中でかゆがり血だらけになることを考えると、外出もままなりませんでした。 祖父母の墓前に報告に出かけた際も、3日分のお弁当を用意して出かけました。母乳をあげているときは、どれだけ食べても太りませんし、また、とてもお腹がすきます。3日分のはずが途中で足りなくなり、……あんなにひもじい思いをしたことはありませんでした。 食べられない……となると、無性に食べたくなる食品がありました。テレビをつけても雑誌を読んでいても、世の中には、美味しい物の情報が溢れています。 それでも、子供がこんなことになったのは私のせいと自分を責めていたので、自分さえ我慢したらいいという気持ちだけで支えていました。
その一方で、玄米と野菜だけの食事は私の身体を整え味覚と嗅覚をも研ぎ澄ませてくれました。長年患っていた鼻炎は、ぴたりと消えていました。爪が丈夫になりました。アトピーで泣く子どものためにゆっくりと横になって眠ることができなかったのですが、10分間ほどの仮眠をとればその10分間で十分な回復力が備わっていました。そんな元気を玄米パワーと呼ぶようになっていきました。 なずな農園のオクラを茹でて細かく切り、うるめ削り(商品名)とお醤油をかけていただくと生卵にお醤油をかけた味がすると感動し、こんにゃくを揚げるとお肉のようだと喜びました。 梅肉エキスをそのままスプーンで口の中へ(驚きの酸っぱさ)、すぐさま水を含むと口いっぱいに広がる甘みを発見して(この甘みが唯一許された甘みだったので)、これには本当に助けられました。
息子の笑顔に会いたくて「今日1日がんばろう」と今日だけで精いっぱいの日々でした。主食は、玄米にゴマ塩かけて、おやつは玄米を油で焼いておやきにして食べていました。主食も玄米、おやつも玄米の日々でした。 玄米は、美味しくない……巷ではそんな声も聞こえてきます。それがとても残念です。 息子を産んだ助産院の助産師さんは、過度な食事制限は、虐待につながる確率が高いのだと心配してくれました。 でも、旬を守って作られた野菜と玄米を食べているうちに体は元気になり、何より体がそれを求めている事に気がつきます。家の水場に落ちていた玄米の種もみから、根っこと芽が出ていたときには、驚きと感動で呆然となりました。水があれば、芽吹く命。
「玄米は命まるごとだからいいんじゃ。」赤峰さんの大分弁が聞こえてきそうです。 自然海塩をたっぷりかけたなずな農園のトマトを、口にした瞬間、嬉しさと美味しさで泣いてしまいました。東京では、無農薬無化学肥料のトマトが手に入らずに1年ぶりのトマトでした。トマトで涙する自分に驚きながら、本当に命を頂いているのだなと……大切な命を咀嚼して取り入れ、自分たちの命にかえさせて「いただきます」なんだと実感していました。 皆さんも美味しい玄米食べて玄米パワー体感してみませんか?
こんにちは。シノハラです。かつてアトピーと喘息で死の宣告を受けた二人の子供の母親です。
なずな(自然循環農法家・赤峰勝人さんの主宰)から野菜や調味料が届くようになり、食事から化学合成された添加物や砂糖をとらなくてすむようになりました。
生活の中での経皮毒となる洗剤やシャンプーにも気を配り、洋服も木綿か麻にし、化粧品も使用せず、出来るものは手作りして注意していました。
ただ、気掛かりな事がありました。それは、子供が病気になった時どうするかという事でした。
重症のアトピー性皮膚炎だった長男は、湿疹が落ち着くまで予防接種は待ちましょうという医師のアドバイス通り、一切の化学薬品は体内に入れていませんでした。
(助産院で生まれてすぐにビタミンKシロップは服用)
予防接種は受けさせたくないと何となく思っていたのでそれはそれで良かったのですが、初めて高熱40度以上を出したときには、途方に暮れました。というよりは「ビビった!」という表現の方がピッタリだったと思います。
何でもなければ迷わず病院に連れて行ったでしょう。でも、クスリを飲むことが「かゆみ」に直結しているように見える息子には、ただ、クスリに頼ることは、過酷な事のように思えていました。
病院に行くべきか?それとも……、迷いに迷いながらも東城百合子著「自然療法」を片手に実行してみました。
豆腐パスターや梅醤番茶を作り、青菜を取り返え、足の裏をビワ葉こんにゃく湿布で温めていました。
自然療法は、小さな子供には馴染みにくく初めは嫌がりましたが、熱が出たら青菜を額や後頭部に当て梅醤番茶を子供が飲める分だけ飲ませていました。
そんなことを続けていたら、いつの頃からか具合が悪くなりかけると子供自身から梅醤番茶が飲みたいとかレンコン湯が飲みたいと言い出すようになりました。子供にも何か伝わるものがあったのではないでしょうか……。
自然療法は、必ず応えてくれました。これが古くから民間に伝わる「お手当」というものなのか……自然の愛が少しずつ、私の中に勇気を芽生えさせてくれたように思います。
しかし、親の不注意からコーヒーが腕にかかり火傷を負ってしまったときには、さすがに病院に飛んで行きました。腕の皮膚は溶けて垂れ下がり、感染症さえ懸念される症状でした。処置後、帰宅するとクスリを塗った腕を嫌がりむずがるので、自然海塩を水で溶いた塩水でそっとそっとクスリを洗い流し、ビワの生葉で火傷を包みました。ほどなく、痛いはずの腕をついて何ごともなかったように遊び出したのを見て、ビワ葉の凄さに感動したこともありました。病院では、「これは跡に残りますよ」と言われていましたが、朝晩2回ビワ葉を取り替えただけで、火傷は跡形もなく一週間ほどできれいに治りました。
赤峰さんの著書『ニンジンから宇宙へ』にある「自然から私たちは十分愛されています」ということを少しだけ体感した気持ちになれたのです。
こんにちは。シノハラです。かつてアトピーと喘息で死の宣告を受けた二人の子供の母親です。
長男はアトピー性皮膚炎も重症でしたが、喘息も命の危険を伴うタイプの発作を起こして3歳までに5回の入退院を繰り返しました。
ドクターハラスメント……あの頃は、あまり聞かない言葉でしたし、どこからがハラスメントなのかは今もわかりません。どうしても患者にとって医師とは絶対的な存在で、良い患者でないと最善の治療を受けられないのでは?と不安になります。
12年ほど前になりますが、長男が東京のある救急病院に初めて入院した時のことです。
「アトピーのために玄米菜食をして母乳で育てています。」と言った私は、個室に呼ばれていました。対面する2人の医師が、代わる代わるいくつもの言葉を投げつけます。
「お母さん、あんたはそれで満足かもしれないけれど、子供はあなたのモルモットじゃないよ!」「なんかの宗教なの?」「最近は、アトピーが金儲けの道具にされてるからヘンなのに引っかかってんじゃないの?」まるで取り調べでも受けているかのように、私がいかに常識はずれな母親かを思い知らせたいようでした。
アレルギーは、クスリで抑えて上手く付き合う。という医師と、治したい!と思う母親の考えは平行線をたどるだけでした。「玄米菜食?そんな食事なら成長障害を起こしてるに決まってるから検査ね。」と、1歳6カ月の泣き叫ぶ息子はネットで押さえつけられて、手のひらのレントゲンを撮りました。検査結果を見ながら医師は「おかしいなあ???」を繰り返し、不安な母親に「今のところ問題ないみたいだけど、骨の数が足りないと思ったんだけどなあ?」と納得のいかない様子でした。「一応アレルギー検査もしとくけど、どうせ結果はわかってるけど……まあ、とりあえずしますか?」
数日たって、回診の時間に検査結果を教えてくださいと尋ねると、「え?見たい?じゃあ見る?」これが病院の医師の対応なのか? 何故?こんなにも酷い対応なのか? どこにも頼るところもなく、ただ、一日も早く退院出来たらと思い黙っていました。
2度目に入院することになった時、担当医が代わっていました。待ってましたとばかりに部屋に呼びつけた私に向かって、「必ず戻って来ると思っていました。前の入院の時から言いたいことがありましたが、担当じゃなかったんで言えませんでした。貴方みたいな自分本位の母親がいるから困るんですよ。アトピーは、ステロイド塗って、喘息だってクスリでコントロール出来るんですよ!貴方は子供を殺すつもりなのか?死ぬところだったんですよ。」私に向かって真っすぐに伸びた医師の人差し指を見つめながら、いつのまにか握りしめていた右手のこぶしに更に力が入るのをどこか冷静に感じていました。私の目から涙が一筋流れ落ちました。
喘息で入院し、点滴や薬で落ち着くと退院、数日後、全身から湿疹が噴き出す、ステロイドも効かない……この繰り返しの中で母親としての未熟さは、十分に感じていました。
クスリだけに頼れないことも母親としての保護本能機能が、警告音を鳴らすほどに感じ取っていました。
医師と私のやり取りを隣で聞いていた看護師さんがおろおろしながらそれでも精一杯申し訳なさそうな目でこちらを見ていました。
「必ず戻ってくる……」そう言った医師の冷たさが胸に刺さっていました。
「私が言いたかったのは、以上です。もういいです。」そう言うと医師は出て行きました。
こみ上げる涙を必死でこらえながら、地下の駐車場まで走り、ただ嗚咽しました。
子供の前では笑顔でも、一人になれば疲れ果てていたのでしょう。その日の帰りに乗ったタクシーの運転手さんが、大病を患ったお嬢さんが今は元気になり、先日、成人式を迎えたのですよ。と、話してくれました。私が聞いているのか聞いていないのか確かめるでもなく、ただ温かく話してくれていました。駅前ではなく病院の玄関前で客を待っていたタクシーの運転手さん。人への限りない愛に、私の冷えた涙が、温かな涙に変わるのを頬が感じ取っていました。
・篠原なおこ・
1999年より大分県野津町に転地療法により移住し、出来る限り科学物質を排除
した生活をしながら、マクロビオテック、玄米菜食等の食事療法から、自然療法
(びわ温灸、サトイモ湿布等のお手当、)宗教的、民間療法(気功、波動転写機
による波動療法等)の類、ホメオパシーを試して10年を大分で過ごす。
現在は、中2・ 小2二人の息子と東京在中。
Twice Wifeを目指してます!
こんにちは。シノハラです。かつてアトピーと喘息で死の宣告を受けた二人の子供の母親です。
「子供がアトピーになった」というだけのことで、今まで気がつくことのなかったことに目を向けるようになっていきました。
ベビーカーで眠る血まみれの顔の息子に、息をのんで釘づけになる人々やヒソヒソと話す声。その正体を知りたげに通り過ぎては何度も戻ってくる小学生たちとその子たちの笑い声。公民館のプレイルームでは、息子のそばに少しでも我が子が近付くと、すぐに引き離すために抱き上げるお母さんたち。
息子の顔は、アトピーの湿疹というよりは、見た目には焼けただれたような様相でしたから、何だかわからない病気に対して、母親としてはうつるのではないか?という恐怖があったのだと思います。だからこそ、同じ年頃の子どもを持つお母さんたちの視線がとても鋭かったのです。
同じ母親として、子供を守りたい思いもその恐怖も、理解することが出来ました。
それでも、何処に行っても一瞥されるその視線に疲れ、傷つき、ベビーカーを押しながら歩いていても涙が勝手に流れ落ちて行きました。
息子を見る一人一人に詰め寄って、「うちの息子が何をしたというのです?ただアトピーなだけです。」そう叫んでしまえたらどんなに楽だろう・・・そんなことを思っていました。
あの頃の私は、来る日も来る日もかゆみで眠れない息子を抱いて朝を迎え、昼間はただ人々の視線に怯えながら、顔ではなんでもないとばかりに微笑んでいました。
しかし、同じ年頃の子どもたちが集まっている公園には出かけることが出来なくなっていました。
いつの間にか息子の成長を楽しむことも忘れて「この湿疹さえ消えてくれたら・・・」と、願う日々が続きました。毎日、その出方を変化させる湿疹に一喜一憂し、ただため息ばかりついていました。
ある日出かけた郵便局は、いつものように混雑していました。
そしてまた、注がれる視線にじっと耐えていると、「赤ちゃんどうしたの?酷いね」と、初めて声をかけられました。こんな風に声に出して尋ねてもらえたらどんなにいいだろうと感じながらも、身構えてしまいました。
何故なら、その女性はブラウスのボタンは掛け違えはだけていましたし、昼間だというのに明らかにお酒の匂いがしていたからです。
しかし次の瞬間、他人を見た目で判断する偏見に満ちた自分自身に気がついたのです。
息子に向けられた視線は、私が他人に向けている恐怖の視線そのものだったのです。
こんにちは。シノハラです。かつてアトピーと喘息で死の宣告を受けた二人の子供の母親です。
……重度のアトピー性皮膚炎と診断された生後間もない息子の顔に、これまで拒絶してきたステロイド剤を塗りながらも葛藤する毎日でした。
医師から「4日経っても腫れが引かなければ切開します」と言われてた頬の湿疹は、切開して膿を出す処置をなんとか回避出来ました。
ですが、ステロイド剤は息子の湿疹には全く効果が見られませんでした。それどころか悪化したようにも見えました。
今思えば、この時ステロイド剤の効果が無かったことは幸いな事でしたが…。
そして、相変わらず「こんなに酷い子は見たことがありません」と繰り返される医師の言葉に、夫は「医者がそう言うなら治らないんだろう」と諦めた様子でした。
そんな絶望の中、題名に引きつけられるように読んだのが、赤峰勝人さんの『ニンジンから宇宙へ』でした。本の文中に次のような言葉を見つけたのです。
・アトピーは病気ではありません。
・アトピーは必ず取り除けます
・毒を体外へ排出している自然治癒力なのです
・何故もっと自分の身体の声に耳を傾けないのですか?
・何故もっと知ろうとしないのですか?
・この宇宙に生きているのではない、生かされているのです
・自然から私たちは十分愛されています、自分を愛するように自然をもっと愛することです。
・たった一人のあなたが気がつけばいいのです
……そして「アトピーの子どもは天の使い、天使です」
まさに、闇に吹き抜ける光の矢のような言葉でした。
ハエのたかる膿臭い息子が天使だなんて……。この言葉にどれほど涙し、救われた事でしょう。
誰もがそう思うように、いつの間にか母親である私も「可哀相な子」としか見れなくなっていたのです。
子どもは親を選んで生まれ降りるといいます。もしも、この子がすべてを知りながらそれでも役目を引き受けてくれたのだとしたら……?そんな思いが過ぎります。
「神虫さん(ニンジンから宇宙へに記述)」を発見した赤峰さん。人が忌み嫌うものの中に愛を見る、そんな赤峰さんの言葉を信じたい思いでいっぱいになっていました。
・篠原なおこ・
1999年より大分県野津町に転地療法により移住し、出来る限り科学物質を排除
した生活をしながら、マクロビオテック、玄米菜食等の食事療法から、自然療法
(びわ温灸、サトイモ湿布等のお手当、)宗教的、民間療法(気功、波動転写機
による波動療法等)の類、ホメオパシーを試して10年を大分で過ごす。
現在は、中2・ 小2二人の息子と東京在中。
Twice Wifeを目指してます!
こんにちは。シノハラです。かつてアトピーと喘息で死の宣告を受けた二人の子供の母親です。
息子の顔の湿疹は、全体に広がっていきました。
掻かないようにミトンをしていましたが、痒みから必死に小さな手を頬にこすりつけてしまいます。そんな日々の中で、掻いたところから化膿してしまい、病院に行くか行くまいかを決めかねていました。
……アトピーは病院では良くならない、という事は何となく感じていました。子育ても出来るだけ自然に育てていきたいという思いがあり、息子の出産の時にも赤ちゃんの負担がなるべく少ない方法でお産が出来る助産院を探し、水中出産を選択したのもその為でした。また、予防接種等の投薬も避けたい事のひとつだったので、病院はなるべく敬遠してきました。
ですが、今回はこのまま放ってもおけず、息子を初めて病院に連れて行く事にしました。待合室で、出来ればこのまま帰りたいという想いを必死に堪えていました。
そして診察室へ……、しかし、医師の言葉が不安な母親の心を突き刺しました。
「どうしてこんなになるまで放っておいたかな? こんなに酷い子を診たことがない。まず治らないでしょう。たとえ良くなったとしても、汗腺の80%は潰れてしまいます。4日間経過して化膿が引かなければ切るしかありません。外科医を紹介します。」
それは、医師という立場からのアトピー宣言でした。
現代医学では治癒が困難だという宣告でもありました。
この時まで、じつは私自身「もしかしたら、治してもらえるのではないか」と、どこかで期待していた事に気づかされました。
「治してみせる!」決意した私の心はぐらぐらと揺れていたのです。
この日から、ずっと拒み続けてきたステロイド剤と抗生剤が処方されました。
……もちろん、これまで何もしてこなかった訳ではありません。洗剤や衣服の素材等、息子の肌に触れるものにも気をつけてきました。マクロビオティックの本も読み実行しました。日に何軒もの自然食品店へ行き、無農薬野菜を探し、宅配会員にもなりました。 民間の健康相談所も訪ね、食事指導を受け、ビワ葉こんにゃく湿布とビワ葉温灸を欠かさない日々を重ねてきたのです。
それでも息子は……、私には厳しずぎる現実でした。
【 第1回 】
こんにちは。シノハラです。かつてアトピーと喘息で死の宣告を受けた二人の子供の母親です。
平成9年2月、結婚して2年が経った頃、初めて男の子を出産しました。
その子がアトピーと判るまでに時間はかかりませんでした。
…崩れていく皮膚、お宮参りの時には帽子を目深に被せ、周囲から見えないようにしました。
なぜ? どうして? どうしてうちの子だけが? 私さえちゃんと産んであげられていたら……、と、自分を責める言葉ばかりが浮かんでは消えていきました。
日に日に抱いていないと眠らないようになりました。一日中抱いてあやし、夜は椅子に座り抱いたまま目を閉じ、泣きだすと立ち上がって子守唄を歌い、眠れるまで同じことを繰り返す毎日でした。夜明けは必ずくるけれど、私だけは終わらない一日のなかに取り残されているように感じていました。
初めての子育て、それだけでも一人では不安なことだらけだというのに。息子の命が私の手に委ねられている事実に、この命の重みに押しつぶされてしまいそうでした。不安と恐怖に溺れてしまいそうな毎日。かさぶたと膿がべったり張り付いた顔。ミトンをしていても掻いて吹き出る血と膿の匂い、黄色いシミのついた服やシーツ、「可愛い」と言われるはずの赤ちゃんなのに……、生まれてたった4カ月だというのにグチャグチャの顔。
かゆみで苦しむ息子を前に、何故? 私ではなく、この子が苦しむのか? 苦しむわが子をただ抱くことしかできないで母親と言えるのか? 代わってやることさえ叶わない。この苦痛から逃げてしまえたらいいのに……。崩れていく息子の顔、全身に広がっていく湿疹を見つめながら私の気持ちは、死に向かっていました。
そんな時、「生後四カ月の女の子を母親が絞殺」という報道を耳にしました。
「この子のアトピーは、一生治りません」
病院のたった一人の医師の言葉から、わが子の将来を悲観されての事でした。この時の衝撃を今も忘れることができません。
……私だったかもしれなかった、そのお母さんの思いが胸に突き刺さりました。
こんな悲劇は二度と起きてはならない。その日から、どうしても撮れなかった息子の写真を記録として残すために撮り始めました。
治す! 治してみせる! 息子の顔を見つめながら決意していました。

・篠原なおこ・
1999年より大分県野津町に転地療法により移住し、出来る限り科学物質を排除
した生活をしながら、マクロビオテック、玄米菜食等の食事療法から、自然療法
(びわ温灸、サトイモ湿布等のお手当、)宗教的、民間療法(気功、波動転写機
による波動療法等)の類、ホメオパシーを試して10年を大分で過ごす。
現在は、中2・ 小2二人の息子と東京在中。
Twice Wifeを目指してます!